丁度、冬に履いていたブーツ類の収納とサンダルの入れ替わり時期でもあります。
気温も日中は高くなり、モコモコのスリッパや足首までの靴も暑く感じる今日この頃です。
久しぶりに、電車に乗ってみると、素足にサンダルを履かれている方もちらほら見かけます。
そんなこんなで、下駄箱の扉を開け、思い切って靴の整理に挑みました。
そんな思いつきの断捨離が、思わぬ方向に…
思い出がつまった靴
大抵の靴は昨年の秋に断捨離していたので、捨てるものといえば、空き箱ぐらいでしたが、どうしても捨てられない靴が2足出てきたのです。
この2足は、私が結婚する前に、友人とイタリアに旅行しベネチアで購入した一品です。
そう、この写真の靴は20数年前の靴です。
20数年前に購入したにもかかわらず、このデザインは今でも古く感じられません。
この靴を手に取った瞬間、花の都フィレンツェ、水の都ベネチアの旅情ある風景が蘇り、カンツオーネの歌声が、ゴンドラから聞こえてきそうです。
色といい、形といい、まさしく私にとっては、イタリアなのです。
シンデレラの魔法が解ける時
私は、また、いつか…と思って収納していたのですが、
先延ばししていても日の目を見ることのできない靴なら、役に立たないのではないか?
と思い、そっと靴を履いてみました。
サイズはぴったりです。
でも、2〜3歩、歩き始めると違和感が湧いてきました。
そうなんです。
年齢とともに靴のサイズも微妙に変わっていたんです。
ふうぅ……
廊下に置いてしばし眺めてみました。
美しさにうっとりしながら、もう一度、トライ。
ちょっとぐらい無理すれば履けるんじゃないかなぁ…
そんな気持ちを後に、1日が過ぎていきました。
翌日、もう一度履いてみたのですが、やはり違和感があるのです。
そして、この靴を眺めながら、履くことは多分ないのではないか?とふと思ったのです。
シンデレラストーリーの中で生きている私
結婚して、子供を身ごもって、出産して、子育てに追われ、そんな時を駆け抜けている間に、あっという間に20年が過ぎていきました。
私の体型は時と共に変わり、靴までも私を受け入れなくなったのではないか?と思うと、寂しくなりました。
いつか着る服、いつか履ける靴、いつか、いつか……
そのいつかは一体いつなんでしょうか?
私は、シンデレラストーリーの如く、私にぴったりのガラスの靴を、誰かが馬車に乗って持ってきてくれると、心待ちにしていたのです。
リュックを投げる時
私はもう一度問い直しました。
「後20年、この靴と共に待ち続ける気ですか?」と…
そして、もう履くことのない靴を手に取り、新しい未来を想像したのです。
人は、決断の迫られた時、手放さないと取りに行くことができません。
何故なら、両手がふさがっていたら、チャンスをつかむことができないからです。
そして、もう一つ、私のリュックは乗り越えられるかわからない塀の向こうに投げる覚悟を決めました。
そう、すべてを同時に手に入れることはできないのですから
自分のリュックを煉瓦の壁の向こうに放り投げたからといって、
壁の向こうに行けることが、保証されるわけではありません。しかし、自分のリュックを煉瓦の壁の向こうに放り投げることで、
達成の確率は飛躍的に高まります。それは、なぜでしょうか?
スコットランド人の登山家ウィリアム・H・マリーは、その著作の中で、リュックを煉瓦の壁の向こうに放り投げることの利点を、このように書いています。
『人が決意を固めた瞬間、すべてがその人のために動きだす。まるで決意から、その人を助ける出来事が、大きな川となって流れ出てくるかのようでさえある。
それがなければ発生しえなかったであろうさまざまなことが、その人を助けるべく、次々と発生しはじめるのである』タル・ベン・シャハー氏は、リュックを煉瓦の壁の向こうに
放り投げることについて、このように述べています。『そのとき私たちは、現実に反応しようとするのではなく、現実を創造しようとしているのです』