慌ただしかったお正月も通り過ぎ、ようやく自分のペースを取り戻しつつある。
正直なところ、「疲れた」という感想を抱いてもおかしくない三が日だった。
けれど不思議なことに、そんな疲労感よりも、人が集まることの温かさの方が強く心に残っている。親族や家族と顔を合わせ、「今年もよろしくね」と笑顔を交わす。
年に一度の定例行事は、やはり私たちに必要なものなのだろう。
回転寿司で見た父の姿
実家の84歳になる高齢の父に会いに行った。
お昼も近かったので、たまたま立ち寄った回転寿司に家族で入っただが、父が目を輝かせながら回ってくる寿司を次々と取っている姿が印象的だった。
自分で選んで、自分の手で取って、パクパクと食べる。
その様子がとても楽しそうで、見ているこちらまで嬉しくなった。
メニューを見て注文するのは、きっと父にとってハードルが高いのだろう。
でも、目の前をくるくると回ってくる寿司なら、食べたいものを自分の力で選び取れる。それが食欲を刺激するのだ。
いつもはさほど手が伸びない食事も、回転寿司では、ほんまよー食べるなぁと言う印象だった。
人は誰しも、どこかに「めんどくさい」という気持ちを抱えている。
ほんの少しの手間が、「まあいいか」という諦めに変わってしまう。
年齢を追うごとに食が細くなるのも、もしかしたらそんな小さな億劫さの積み重ねかもしれない。
お正月の魔法と罠
お正月は贅沢な季節だ。
冷蔵庫を開けても、キッチンカウンターにも、テーブルの上にも、ふんだんに食べ物が並んでいる。
いただきもののお菓子が、まるで宝物のようにずらりと鎮座している。
そうなると、お腹が空いていなくても手が伸びてしまう。
「ちょっと食べてみるか」という好奇心が、次々と口を動かす。
普段は手にしない食べ物、高級そうなお菓子。それらが惜しげもなく並んでいるのだから、お正月太りは当然といえば当然だ。
ブログが止まった理由
ここで、ふと気づいたことがある。
この二ヶ月ほど、私のブログは停滞していた。
iPhoneからAndroidに機種変更したことで、今まで何気なくこなしていた作業に、ほんの少しだけ手間が増えたのだ。
「よっこいしょ」という気持ちが生まれてしまった。
ブログ自体は書いていた。
でも、最後のひと手間である「更新」ができなかった。
勢いで書いた文章も、時間とともに色褪せていく。
一週間も放置すると、もう更新する気力が湧かなくなる。
ブログも生き物なのだと、つくづく思う。
書かないことの喪失感
では、書かなければそれでよかったのか。
そう問われると、答えはノーだ。
いつも書いていた記録がなくなると、自分の思いや感じたことを表現できないもどかしさが募る。
「今日もできた」という小さな達成感が失われていくのが、とても悲しい。
これは自己肯定感だろうか。それとも自己効力感だろうか。
どちらにせよ、ささやかな「できた」という感覚が、自分の気持ちを支えていることに変わりはない。
だから、またぼちぼちと書いていこうと思う。
小さな手間が奪うもの
父が回転寿司で楽しそうに食べていた姿も、お正月に手が伸びるお菓子も、停滞していたブログも、すべて同じことを教えてくれた。
人は、ほんの小さな手間に阻まれて、本当はしたいことを諦めてしまう。
でも逆に言えば、その手間さえ取り除けば、自然と行動が促される。
回転寿司がそうであるように。目の前に並んだお菓子がそうであるように。
私にとってのブログも、きっとそうなのだろう。
書くことと言うより、自分を表現し書けた!と言う達成感を味わうことが好きだ。
ただ、最後のひと手間が億劫なだけ。
ならば、その手間を減らす工夫をすればいい。
元気そうな父の姿を見られたことが、何よりの収穫だった。
そして、小さな気づきをくれたお正月に感謝したい。
今年も、自分らしく、ぼちぼちと歩いていこう。
そして、あなたが読んでくれているからまた一歩進むことが出来る。
ありがとう
