今日は、先日届いたPlaud Note(プラウドノート)をどう活用したのかについて書いてみたいと思います。
実は、YouTubeやブログではガジェット紹介と使い方についての投稿が溢れており、私がわざわざここに書く必要もないかなとも思っていました。
しかし、「60代の女性主婦が、このガジェットをどう使っているのか」という視点は少ないのではないでしょうか。
実際に使っている方や、購入を迷っている方へのヒントになればと思い書いてみました。
会議の要約機能などは多くの人が活用している便利な使い方ですが、今回は「こんな使い方もあるんだ」と気づいた私自身の体験談をお届けします。
雑談のふりをして、大切な話を
今日、私は京都の実家へ向かった。妹が仕事の休みを取れたこと、父の顔が見たかったこと、そして…。
いくつかの理由が重なって、1ヶ月ぶりの帰省となった。
実は前回帰省した時、父と妹と三人で話していたことがあった。
「パパが最期をどう過ごしたいか、そろそろちゃんと聞いておかないとね」
いわゆる厚生労働省が啓蒙している「人生会議」のことだ。
でも、この話題は重い。構えてメモを取ったり、会議室や居間ような改まった場所で質問攻めにしたりすれば、父も身構えてしまうだろう。
本当に言いたいことが言えなくなってしまう。
だから今日は、喫茶店でケーキを頬張りながら、リラックスした雰囲気の中で話すことにした。
そして、その会話の一部始終を、プラウドノートで録音させてもらうことにした。大きさもクレジットカードぐらいなので、テーブルで録音されていてもあまり違和感がない。
「ほら、前言ってたやん。人生会議じゃないけど、もしもの時、どんな風に過ごしたいか、ちょっと聞かせてほしいねん」
冗談を交えながら、さりげなく切り出した。
母のことを思い出しながら
正直、何を質問すればいいのか、最初は分からなかった。
だから事前に少しフォーマットを用意しておいた。こちらを参考にしてみてください。
「最期はどんな風に過ごしたい?」「誰と一緒にいたい?」「延命治療についてはどう考えてる?」「治療方針は自分で決めたい? それとも家族に任せたい?」
質問を重ねていくうちに、3人の会話は自然と深まっていった。そして、ある記憶が蘇ってきた。
母のこと
母は二年間、病院で過ごした。そのうちの一年は、ほぼ植物状態だった。
「延命治療をしますか?」と医師から問われた時、母はもう自分の意思を示すことができなかった。
そして、すべての決断は、父に委ねられた。
あの時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。
いつ、何が起こるかは分からない。実際に倒れたときはその数時間前まで電話で喋っていて、明日退院するのを楽しみにしていた母がいたのです。
危うく一命は取り留めたものの、それから植物人間のような状態になるまでの1年間は、今後の母のことを本人を交えて話そうにも、それを伝えることが酷すぎる状態でもあったのです。
その時になってみないとわからない。
本人の意思が尊重されるかどうかも分からない。
それは薄々、母が亡くなってから私たち家族にとって心の奥底にずっとあった不安だった。
でも、元気な父の姿を見ていると、「まあ、またいつか話せばいいか」と、つい後回しにしてしまっている状態だったのです。
弾んでいく会話、深まっていく理解
母の思い出、今の生活で楽しいこと、大切にしていること。
そんな話を交えながら質問を重ねていくと、不思議なもので、会話はどんどん弾んでいった。
1時間ほど話しただろうか。
その間、父は自分の言葉で、自分の思いを語ってくれた。日常的な暮らしのこと、お金の心配、そして最期をどう迎えたいか。
「やっぱり、自分のお金で、安心して最期を迎えたいんだな」
父のそんな思いが、じんわりと伝わってきた。
テクノロジーが紡ぐ、家族の絆
会話が終わり、録音を停止すると、数分もしないうちにプラウドノート が文字起こしと要約を作成してくれた。
その精度に、私は驚いた。そして妹にその要約をLINEで送ると──
妹の目が、まん丸になった。
「えっ、こんなので、ここまで要約してくれるの!?」
あの驚いた顔が、今でも可笑しくてたまらない。
この要約があることで、私たち三人の認識を共有することができた。「そうそう、さっきこんなこと話したよね」と確認し合い、理解を深めることができた。
次に話す時は、「前回はこんなこと言ってたよね」から始められる。
双方の時間も短縮できるし、言った言わないの行き違いも防げる。
お互いに気持ちよく、続きから話せるだろう。
形に残すこと、積み重ねていくこと
父はガラケーしか持っていないので、すぐに文章を共有することはできない。でも、この文字起こしをPDFにして、次回、紙に印刷して持っていこうと思う。
こうして目の前にある文字起こしの要約を少しずつ積み重ねていけば、父が本当に望む最期の姿が、徐々に見えてくるはずだ。
そして、私たち家族も、そのことを考える大切なきっかけになる。
実際にその通りにできるかどうかは、分からない。
でも、こうやって話し、考え、情報を共有していくことで、いざという時の行動や心の持ちようが、少しは変わってくるのではないだろうか。
共通言語を持つということ
今日、私は改めて感じた。
家族で情報を共有していくこと、みんなで話した内容を文章にしていくこと。
それは、家族のあり方を考える上で、とても大切なことなのだと。
喫茶店でのたわいもない雑談。でも、それは私たち家族にとって、かけがえのない時間だった。
テクノロジーは、そんな家族の対話を、そっと支えてくれる。言葉を記録し、思いを残し、理解を深める手助けをしてくれる。
父との時間は、いつまでも続くわけではない。
だからこそ、今、この瞬間を大切にしたい。
そして、いつか振り返った時に、「あの時、ちゃんと話せてよかった」と思えるように。
帰り道、私は京都の街並みを眺めながら思った。次はどんな話をしようか、と。
しかし、目を丸くした妹の驚きに私の口元がほころんだ。