小学校に入学し、1〜2年生を担当したのは年配の男の先生で学年主任というだけあって、厳しい先生で、怒るととても怖かったことを覚えています。
幼稚園では、毎日のほほんと園に行っていればよかったのですが、宿題やら45分間ちゃんと座っての授業は、退屈で退屈で仕方ありませんでした。
特に、給食に至っては、はじめの頃は慣れておらず、食事がきちっと揃ってから全員で「いただきます」をするのにとても長く感じました。まるで、犬が餌を食べる際に、待てと飼い主に言われ待っているようなものでした。
学校の評価は5段階評価で、確か普通の成績だったように思います。
特に好きな科目もなかったですし、普通でしたが、私のルーズな性格が災いしてか、時間割を前日にやらずに朝バタバタとやってしまうために忘れ物が多かったようです。
特に、忘れ物と宿題に関しては、グラフにしてシールを貼って競いあっていましたから、そこにバツがつくことが嫌で、しょっちゅうお昼休み等の休憩時間に学校にある公衆電話から電話をして母親に自転車で持ってきてもらったことがありました。特によく忘れたのが、給食当番用のエプロンやマスク、リコーダーでした。
母親が妹や弟が小さかったため働きに行くことができず専業主婦だったことが幸いでした。今から考えると自転車で片道20分ほどかかる学校までよく届けてくれたことにとても感謝しています。
高学年になると美術の先生が私たちのクラスの担任になり、よくデパートで行われる京都市を対象にした小学生の画展に先生が競って子供たちの絵を出展してくれました。
すると、同じ1枚の絵を描くにも自分の絵が飾られたいという気持ちになり、熱心に何度も何度もやり直して書くことが当たり前になりました。
途中まで描けていても、気に入らない絵ならもう一度画用紙を買い行って家で書いたり、上手いの人の技法を真似して書いてみたりと、様々な工夫をしたことを覚えています。これは幼稚園の時に隣のお友達がとても素敵なチューリップの絵を描くのを見て真似ることと似ていました。
すると、その積極的な意欲が認められたのか、絵を書くと必ず展覧会に出展されそして賞を取るようになりました。
今から考えれば、デパートでの展覧会は、単に客寄せだったのかもしれませんが、それでもデパートで、たくさんの人の目に触れるところに展示されるということ、展示されたら、家族一緒にデパートに私の作品をみに行って、帰りに屋上のパーラーでフルーツパフェを食べた味は最高でした!
持って帰った賞状は、おじいちゃんが、大工でしたから丁寧にフレームを作ってくれました。
一つ一つ居間に飾られた賞状が誇らしく、そしてこの四角いっぱいに、私の賞状を飾ることが楽しみでした。
得意であったのは、絵だけではなく小学校の4年生位からなら習い始めた書道も同じように賞をとっていきました。
中学校に入ると、「お前は字が上手だからちゃんと書道習ったほうがいいんじゃないか?」と先生から本気で勧められる位でしたが、中学校に入るとエースをねらえの岡ひろみや、お蝶夫人を目指しテニスに毎日あけくれたのでした。(笑)
おかげさまで、美術も書道も5の成績でしたし、加えて音楽はピアノをやっていたし、家庭科は持ち前の器用さがあったので5の成績を収めることができました。
そこまで書くと、こいつすげ〜才女と思われがちですが、その反面、からっきし苦手だったのが、主要科目の英語や物理生物などの理系は、3を右往左往するような感じで、私は、なんで余計なものの方が得意なんだろうと残念でなりませんでした。
実は、振り返ってみるとこの当時、私の友達はほとんど学年でトップのお友達ばっかりでした。
先生との個別懇談でよく、お前はいつもいい友達を持ってるなぁと言われていました。先生にすればそんな才女と、私のような普通の生徒が仲が良いのは不思議だったようです。
これは、私が主要科目が普通レベルだったので、私にない才能を持っている友達が羨ましく尊敬もしていたからです。
今でもそうですが、才女と言われる人は私にないものを持っているのでとても親近感があります。
「そんな人と一緒にいたら劣等感を感じないんですか?」って聞かれるんですが、自分よりも少し抜きに出てる位の人が凄いと感じたら劣等感を感じますが、才女と言われる人は、自分よりも群を抜いてすごいので単純に尊敬するだけなんです。
なので、私が、今から12年ほど前に勝間和代さんという存在を知り、スゲ〜〜と感じファンになりました。
そして、その人なりを10年以上も応援し続けていますが、そこには自分にないものがたくさんあるからだと思います。
そして、近年、私が一番影響力を受けた女性だということは、いうまでもありません。
その話は、また次回に^ ^